YAMATO criticism

宇宙戦艦ヤマトについて、または宇宙戦艦ヤマトを通して考える。

『さらば宇宙戦艦ヤマト』の衝撃

 年が明けて2018年。

 『さらば宇宙戦艦ヤマト』が公開された1978年から、もう40年になる。私のヤマトファン歴もこの年から始まった。

 『さらば』の大ブームは片田舎の町にも波及し、特にアニメ好きというわけではなく、運動部に所属する普通の中学2年だった兄も、友人とバスと電車を乗り継ぎ1時間弱かかる県庁所在地の街まで『さらば』を観に行った。

 「絶対感動するから、お前も見ろ」と、この兄に見せられた2冊のロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト』が、私とヤマトとの出会いだった。

 当時小学2年生。8歳になる少し前だった。

 映画を見るには街に出なければならず、年少の私は『さらば』を観ていない。

(ただし同年の『スター・ウォーズ』ならリアルタイムで家族で映画館で観た記憶があるので、多分中学生の兄には発言権があっても私にはなかったということなのだろう。) 

 ロマンアルバムを読んだだけだったのだが、その衝撃は凄まじかった。とにかく、古代進と森雪の最期が哀れでならなかった。こんな酷い話があるか!と憤りに近い感情さえ覚えた。慟哭、という言葉の意味を生まれて初めて全身で感じた瞬間だったのかもしれない。

 たかがアニメ、である。

 しかも、ヤマトが初めてというわけではない。

 ロボットアニメ全盛期の1970年代に生まれ育ち、既に『デビルマン』『キューティー・ハニー』『コン・バトラーV』『ボルテスV』『ゴワッパー5』を観ていた。

 『ゴワッパー5』の慣れ親しんだ街を喪ったヨーコの悲しみも、『コン・バトラーV』の母に裏切られミーアを喪ったガルーダの悲しみも、はっきりと覚えている。

 それなのに、どうして『さらば宇宙戦艦ヤマト』だけにこれだけの衝撃を受けたのか、今でも解らない。

 

 その前年、私は小学校入学目前で親の転勤のため遠方の県に転居していた。常に疎外感・孤独感を感じて「帰りたい」と思っていた。長期休みに帰省する日を指折り数えて、帰る車の中では泣いていた。

 多分、それも私をヤマトに結びつけた要因のひとつだったのだと思う。孤独な私にとって、古代や雪は単なる非実在青少年ではなかったのだ。

 私がヤマト第1世代のファンーまたは80年代ファンジンの流れの「ネタとしてヤマトを分析する」姿勢に違和感を感じるのはこれが理由である。おそらく当時既に高校生以上だった彼等は、いい年齢でアニメを観る気恥ずかしさ(当時いい大人がアニメや特撮を観ることへのハードルは高く、それはまだまだ子どものものだったのだ)から、そういう斜に構えた姿勢を取らざるを得なかったと思う。

 しかし本当に子どもだった私は、真正面からそれに反発した。

 

 同年10月『宇宙戦艦ヤマト2』の放映が始まる。

 それまで『はいからさんが通る』を観ていた(当然原作も読み込み済みだった)私も、文字通り兄にテレビの前に正座させられて『ヤマト2』の放送を待った。

 『さらば』と『ヤマト2』の結末の違いとその影響については語り尽くされているのでここでは書かない。

 しかし当時の多くのアニメファンがそうだったように、兄もヤマトに「裏切られた」という怒りを抱く。その後に起こったヤマト制作会社のオフィス・アカデミー脱税事件が更に追い打ちをかけた。

 「金儲け主義の糞アニメ」ならまだしも、「死んでた方が良かったのに」という兄の言葉は、私には許せなかった。

 架空の人物の死の重さについて、それから40年、ずっと考え続けている。