YAMATO criticism

宇宙戦艦ヤマトについて、または宇宙戦艦ヤマトを通して考える。

『彼方のアストラ』~自己否定という呪いを振り払う物語

 『彼方のアストラ』ヤマ友さんたちのお勧めで観てみました。配信で一気に観てから最終回に臨んだ駆け込み視聴組です。

  以後感想となりますので、先を知りたくない方は読むのを止めていただければと思います。

  ちなみに私は、原作未読でアニメが初めてでした。

   観て感じたのは「自分にかけられた呪いを振り払う物語」だなぁという事でした。

 

  SF設定についてのあれこれが話題になっていましたが、私はあまりSFを意識しませんでした。むしろ思い出したのは、学園が舞台の『暗殺教室』です。

  『暗殺教室』の主役である椚ヶ丘学園3年E組メンバーは、落ちこぼれ集団として、親や教師という大人から否定された存在です。そして彼等自身も、自分に対して否定的、半ば自暴自棄になっていたりします。

 その彼らが超生物の殺せんせーに導かれながら、自分が自分であること、自分に対する自信を取り戻していく。そして最後、E組メンバーは、殺せんせーを”殺す”ことで、教室を卒業するのです。

 

 『彼方のアストラ』B5班のメンバー(アリエス以外)は、E組ほどあからさまではありませんが、親からの否定をうすうすとは感じています。それが彼等の心に影を落とし、その影が互いの壁になっています。

 生きて帰るためには、その壁を取り払い、互いに手を取り合わなければならない。自分にかけられた自己否定という呪いを解かなければ、前に進めないのです。

 そして、B5班のメンバーには、殺せんせーのように”導いてくれる大人”がいません。カナタの”先生”とアリエスの”母”、そしてウルガーの”兄”は支えではあるけれど、具体的に道を指し示してくれる存在ではない。

 道は、自分たち自身で切り開かなければならないし、呪いは自分たちで解かなければならない。大人の手を借りるのではなく、仲間同士で。

 そして最後、彼等(ここでもアリエス以外)は親(と信じてきた存在)と決別して未来へと進みます。

 

 実を言うと、私は「では、その大人たちに迷いはなかったのか」ということが気になりました。大人たちは、本当に彼等をエゴイズムの道具としてしか見ることができなかったのか。

 『暗殺教室』では、生徒に強者たれと願い徹底的な学力差別システムを作った学園理事長や、自分自身の果たせなかった願望を息子に押し付ける渚の母親など、子どもたちを傷つけてきた大人の側の過去をも描きます。そして、殺せんせー自身も。

 大人の側もまた過去の呪いに囚われている。その大人自身の開放もまた、物語の大きなポイントになっていました。

   大人との決別ではなく、対決とそして和解により、E組メンバーは卒業を迎えます。

 

  『彼方のアストラ』では、オリジナルである親達が逮捕されたことはナレーションで語られるのみです。ウルガーと父の面会シーンはアニメ版オリジナルとのことですが、私はできれば、彼等ひとりひとりが真っ向から親と対決し、そして乗り越えるところを見たかったと思いました。