ヤマトをリアルタイムで観ていた頃、なんでヤマトのエンディング(ED)には宇宙の映像しかないんだってのが不満でした。
他のアニメだと、EDにはキャラの”プライベート”が垣間見えるものがありました。例えば『サイボーグ009』みたいに、たとえ戦闘服のままでも無防備に昼寝しててくれるような、ヤマトクルーのプライベート・本編にない姿が見たかったのです。
ことに我らが古代進なんざ、私服姿すらない100%"公”の男でしたから。隊員服以外っつったら負傷したときのパジャマと包帯くらいですかねえ。
ヤマトの場合、それがようやく実現したのはリメイクになってからでしょうか。
本編の物語が重いものであればあるほど、キャラたちのそうでない姿を見たい。
ヤマトに限らず、そういう思いは同人二次創作を支える大きな原動力のひとつだったんじゃないでしょうか。
(えー。個人的には月刊OUTアニパロコミックス掲載の『小公女セーラ』パロがすごく印象に残っています。本編はとにかく『おしん』レベルのイビリと忍従の連続だったんで、パロの性悪なセーラが爽快だった…^^;)
そしてそういう志向は、二次創作に限らず、作り手の世代交代に伴い本編そのものに反映されていったんじゃないか。80年代はそういう時代だったんじゃないか。実は60~70年代の”重さ”が、80年代の軽さを産んだんじゃないか。
今、そんなことをぼんやり考えています。大雑把な仮説ですが。
なんでそう思ったかというと、宇宙戦艦ヤマト完結編(1983年3月公開:私は当時小6でした)を観なおしてみて、あらためて作品全体の重厚さを感じたからです。
Part1イスカンダル編ですらもっと軽さがあります。音楽の面でもそれは如実に表れていて、クラシカルな『永遠に』や『Ⅲ』『完結編』が先に来て、Part1については交響組曲で捉えていた私は、Part1のBGMをきちんと聴きなおし、そこにジャズやロックの息吹を感じた時はとても驚きました。
私は、ヤマトからガンダムへ、そしてマクロスという時代、ヤマトがかつてのトップからだんだんアニメファンに見放されていくプロセスを肌で感じていた世代です。
そして子ども時代の強烈な悔しさとともに、”あの時代は何だったんだろう”とずっと考えています。
ファンが作品に求めるSF的リアリズムの要求水準上昇。よく指摘されるように、それも一つの大きな要因だと思います。でもそれだけではないような気がしています。
西﨑義展氏の志向した重厚さ(それは『復活篇』により色濃く現れている)と、ファンの求める「軽さ」の乖離。
今そんなことをぼんやりと考えています。