YAMATO criticism

宇宙戦艦ヤマトについて、または宇宙戦艦ヤマトを通して考える。

「敵」について考える

 いよいよ公開間近になってきました『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』

 ワタクシいつもなら参加するヤマトクルー先行上映の抽選に落ちてしまったので、まだ未見です。ちなみにネタバレまったく気にしない、事前に見られるものは極力見ちゃう派ですが、今回知人の話も聞けず情報は入ってない状態です。

 そこで未見のうちだから書けることを、今のうちにちょっと書いておきたいと思います。ヤマトの「敵」について、常々考えていることです。

 復活篇公開当時の昔のブログ(プロバイダが廃止され消滅してしまいましたが)で書いたのですが、鑑賞直後、私は復活篇の「敵」の設定に失望していました。あまりに非実在的でオカルトチックで、幼稚にすら思えたのです。その時に「そもそも”敵”の存在理由にリアリティ、敵なりの理屈が求められはじめたのって、いつからだろう」ってことを考えました。

 『「世界征服」は可能か?』(岡田斗司夫/著)という本があります。

 この本に『ふしぎの海のナディア』企画時、敵方ガーゴイルの設定について、そもそも彼は何を目指しているのかって話をしてるうちに「……実はナディア達よりガーゴイルの方が正しいんじゃね?これじゃ悪者にならないんじゃ…」という疑問が出てしまう、というエピソードが紹介されています。

 ”勧善懲悪”は、物語の基本形のひとつです。アニメに限らず娯楽作品の大部分は、勧善懲悪の物語です。自分なら『水戸黄門』『暴れん坊将軍』などの時代劇をまず思い出しますし、うちの家人なら『蛇拳』『酔拳』とかジャッキー・チェン若かりし頃の仇討ちモノだろうなあ。

 アニメが子ども向けの”テレビまんが”であった時代もまた、勧善懲悪の物語が主流であったように思います。

 しかし時代が下り、視聴者の年齢層が上がり見る目が肥えてくると、観る側がこの単純な”勧善懲悪”に満足できなくなっていきます。敵=100%悪でなくなり、敵には敵なりの理由があり、敵側と主役側が相克することで生まれるドラマが求められはじめます。アニメにおいては、70年代半ばあたりでしょうか。ヤマトも、そのへんに位置付けられるんじゃないかと思います。

 その後のアニメは、矛盾する二つの方向性を内包せざるを得なくなった。私はそう考えています。

 一つは「敵側のリアリティの追求」敵には敵なりの戦う理由がなくてはならない、敵は都合の良い悪魔ではなく、自分たちも絶対の正義ではない、という考え方。

 そしてもう一つは「戦いのリアリティの追求」ヤマトはその先鞭をつけた作品でもあります。アニメの中の戦いに、実際の戦争の兵器や戦略のようなリアルを持ち込むこと。

 前者を突き詰めていくと「戦い」そのものが描けなくなってしまうか、自己否定の後味の悪い物語になってしまう。しかし後者を無邪気に追求するばかりでは、倫理的に疑義のある底の浅い物語になってしまいます。

 この矛盾は他の作品ではどう解決されていたのか。

 『ガンダム』は連邦軍にもジオン軍にも”正義”を置かず、その狭間で必死に”生き延びる”ホワイトベースの面々を主軸に据えることで、この矛盾を解決した、と思っています。そして『マクロス』は”歌”というカルチャーを通じて敵方とも分かり合える、という結末で。『銀河英雄伝説』においては、小説という媒体の強みと圧倒的な著述量で双方を描き切ることで。『エヴァンゲリオン』においては、使徒という敵を背景というか、もう逃れようのない環境として置き、それに向かい合う主観を徹底的に掘り下げそれだけで物語を完結させることで…。

 では『ヤマト』はどうしたか。

 ヤマトにおいては、地球という故郷に対するロマンティシズム、郷愁や所属感がもたらすものが作中の重要なトーンになっている、と考えます。「手を振る人に笑顔でこたえ」というロマンティシズム。旅立つ男にとっては、想う故郷と待つ人は美しく懐かしいものでなければならない。組織のエゴにまみれた存在ではないのです。

 そこが組織のエゴの狭間を生き抜く『ガンダム』との違いと考えます。2202ラストの国民投票に違和感を感じた、という意見を目にしましたが、それは旧来のヤマトの持つ故郷としての地球像を受容してきたファンにとって、国民投票をするようなリアルな国家としての地球は”ちょっと違う”ものだったためではないか。私はそう思いました。だから『ガンダム』のような描写をヤマトがとることは難しい。

 故郷が美しければ美しいほど、それを滅ぼす敵はやっぱり悪魔的になります。だから74年版でリアルな存在になりかけた旧作ヤマトの敵は、その後のシリーズでは悪魔に戻さざるを得なかった。その結果が、あの復活篇の敵でしょう。

 その反省や不満を込め、ガミラスを、リアルな国家・リアルな存在として描いた2199においては『マクロス』型の解決をとったと考えています。(そのために、デスラーが悪を一手に引き受けざるを得ませんでしたが)

 しかし「強大な敵に立ち向かう悲壮」を主眼とする『さらば宇宙戦艦ヤマト』のリメイクにおいてその解決手段はとれない。だからリアルな存在ではなく寓話的な”悪魔”として描く。それが2202の解決手段でした。しかしある程度のリアリズムがなければ、とても現在の視聴者には受け入れられない。

 リアルさと寓話性のバランス、あとやっぱり無視できない戦いのリアリティと面白さの追求、このバランスをとるのは至難の業だったでしょう。

 この難題『さらば』を解決した後、その後の敵はどうなっていくのか。どう描くのか。目が離せないところです。