YAMATO criticism

宇宙戦艦ヤマトについて、または宇宙戦艦ヤマトを通して考える。

ヤマトとガンダムと、人間をロマンで描くということについて

 2205のヒット御礼PVのコピー「誰もが傷ついている時代に贈る喪失と再生の人間賛歌」まさにその通り。ヤマトは人間讃歌、人をロマンで描く物語だと思います。

 80年代、アニメファンの嗜好が「ヤマトからガンダムへ」と言われていた頃、子どもだった自分がなんとなく感じていて、でも言葉にできなかったこと。

 このヤマトの「人間に対するロマンティシズム」がそこに大きくかかわっていたのだと、今になってやっと整理がついたように思います。

 ヤマトは人間讃歌、人間をロマンで描く物語。

 しかしそれは妬みとか驕りとか不信とか、人間の陰影、負の側面を描くのは不得手ということでもあります。

 例えばヤマトⅢ7話。艦長に就任した古代に対する島のわだかまりを描こうとしたエピソードは、中途半端な印象があります。リメイク版での2199で反乱に至った伊東、薮の描写と伊東の最期も同様です。
 ちなみにヤマトの豊田有恒先生原案『アステロイド6』ではその辺もう少しシビアな人物設定がされてました。しかしその原案のまま作られていたら、自分はヤマトファンになっていたかどうか疑問です。

 80年代「ヤマトからガンダムへ」が盛んに叫ばれた時代、主に着目されたのはSF・ミリタリーなどハード面の設定のリアリズムでした。2199は、そのリアリティに悔しさを感じた方たちの想いが結集したひとつの到達点だと思います。
 しかし私がガンダムあるいは富野作品に感じた悔しさ・劣等感は、むしろ人間描写のリアリズムの方にありました。

 ヤマト2放送終了のその日に始まったガンダム本放送。(この時点で私は決定的にヤマト沼にハマり、逆にさらばで感動した兄はアンチになりました)当時9歳の自分は、放映のある土曜夕方5:30は日が暮れるまで外で遊んでいて、ガンダムは断片的に見た記憶しかありません。しかしそれでも強烈な印象が残っています。多分13話『再会、母よ…』・17話『アムロ脱走』前後のエピソードだったと思いますが、そこで描かれるシビアな人間の姿は、ヤマトのような”きれいごと”で済まされるものではありませんでした。

 そしてそのリアルに描かれた人物達を、自分はどうしても好きになることができませんでした。自分が彼等から拒絶されているようにすら感じました。年齢を重ねた後でもそれは変わらず、リアルな人物像を受けいれられないのは、自分が精神的に幼稚で未熟で単純な人間だからなんだろうとずっと憂鬱に感じていました。

 でもその一方で、成長するにつれ(キャラクターへの思慕は変わらないとはいえ)ヤマト本編の人間描写に物足りないものを感じるようになっていったのも事実です。それを補完したくて、中学生になったくらいから二次創作を書くようになりました。あの場面の古代はこんな気持ちだったんじゃないか、本編のあの場面とあの場面の間には、こんなことがあったんじゃないか、だから彼らはこう考えてこう行動したんじゃないか、そこをもっと知りたい。彼らのこころを理解したい。自分が二次創作をするときの原動力はそれです。(だからヤマト以外の作品では書けない)

 でもやっぱり自分には、ガンダムのようなシビアさをもって突き放した目で彼等を描くことはできないのです。おそらくそのへんがファンである自分の限界であり、オリジナルが書ける方との差なんだろうなと思っています。

 そんななので、安彦良和さんのガンダムORIGINやククルス・ドアンを観た時、私には人物描写があまりに素朴すぎるように感じて、拍子抜けしてしまいました。ガンダムともあろうものが、それでいいのか⁈と戸惑ってしまったというか。
 逆に閃光のハサウェイには、ああやっぱりガンダムだなぁと畏敬を感じました。

 

 学生の頃、日本近代文学史の講義で坪内逍遥小説神髄』と明治の写実主義自然主義運動あたりを学んでいる時も、ずっとそんなことを考えていました。

 神話・伝説や江戸期までの文芸例えば歌舞伎の登場人物は、人間をロマンで描き、ともすれば単純化された勧善懲悪の物語と陰影のない単純な人物像になってしまう。坪内の批判はそこに向けられたものなんだろうな。でもむしろそうやって長い年月の中で確立し洗練された『型』を演者の個性によって豊かに肉付けしていくのが歌舞伎の方法論なんだろうなとか。とりとめもなくぼんやりと。

 文学を読んでいる私は、どんな人間にも、深い人生があることを知りました。表面は何もないようでも、沼のようなその底にはその人の苦しみ、悲しみ、悦びと共に願いと祈りとが、地層のように集積しているのだと知りました。

女の一生 二部・サチ子の場合』遠藤周作 より

 イヤなやつをイヤなように描く、というのは簡単で、優れた作家はどんな卑小な人間であってもその真実を描き出します。物語を読むあるいは書くということは、人の、人に対する想像力の営みなのだと思います。