YAMATO criticism

宇宙戦艦ヤマトについて、または宇宙戦艦ヤマトを通して考える。

殺す側の自覚

 実は劇場でPart1映画版を観たのは、十数年前の六本木イッキ見上映が初めてだった。

 目の前に拡がるガミラスの廃墟を劇場でスクリーンいっぱいに観た時、古代進の目にはこれが遊星爆弾被爆後の故郷と重なって見えたに違いない、と思った。

  10歳位の頃、原子爆弾の記録映画を観て大変なショックを受けた。

 毎晩頭上で原子爆弾が炸裂して焼き殺される夢を見てうなされ、夜も眠れず食事をしても吐いてしまっていた。 

 そういう状態が1ヶ月ほど続き、両親は病院に連れて行くことも考えたという。(「そんなものを観るから精神がおかしくなる」とヤマトを観るのもやめさせられそうになった。)

 

 当時誰にも理解してもらえなかった(自分でもそれをうまく言葉にすることができなかった)が、子どもの自分が感じていた恐怖とは、単に無残に焼け爛れた人の姿に対する恐怖だけではなかった。

 もし私がそんな姿になったらみんな私を見捨ててしまうのではないか?自分も家族や近しい人が変わり果てた姿になった時、恐怖のあまり彼らを見捨てて逃げ出してしまうのではないか?

 一発の爆弾で、人間として生きてきたもの信じてきたもの全てが崩壊する。

 その孤独がたまらなく怖かったのだ。

 

 古代は、遊星爆弾で無残に焼き殺された両親や友人たちの姿を見てしまったのではないかと思っている。そして、恐怖のあまり逃げ出してしまったのではないかとも。

 だから、そんな自分も許せず、ガミラスを憎むしか心のもって行き場がなかったんじゃないかと思っている。

 

 そしてその憎悪の行き着いた先が、あのガミラスの廃墟である。

 三浦半島で家族を失った日が彼の「幼年期の終わり」だとしたら、あのガミラスの廃墟は「少年期の終わり」だったのだと思う。

 殺される側から殺す側に回った自分、自分の手が血にまみれていることを知った時、古代進の無垢な少年性は永遠に失われたのだ。

 

 宇宙戦艦ヤマト2199は、この喪失を回避してしまった。

 殺される側の恐怖だけを描き、殺す側の自覚を描き得なかった。

 だから、2202における波動砲を巡っての古代の逡巡には説得力を欠くように思う。

 多分、斎藤の仲間を殺された痛みと復讐心の方が、観る側には共感を呼ぶのではないだろうか。

 

 「約束」だけではなく、自分自身の罪の記憶と痛み。

 それがあってこその古代の迷いであるのに。